ヒース『ルールに従う』第四章 志向的状態
ヒースが言いたいことが、どの程度推論主義や心的内容の公的言語への依存テーゼに依存しているかとかも考えたほうがいいかもしれない
第四章 志向的状態
(イアン・ハッキングが「ウィトゲンシュタインは言語を公共化したが、同時にその政治的帰結から目を逸らさせる役割もしていた」というようなことを、『知の歴史学』で言っていたが、これは、その政治的帰結に光を当てているかもしれない?(政治的っていうか実践的領域というか) ヒューム・ホッブズへの広範な批判だし)
彼〔ホッブズ〕の意見によれば、政治における公共的言説は、全面的に精神的言説に寄生している。
この点で、彼の国家に関する理論と発話に関する理論に対する現在の人々の評価を見比べることは、まさしく示唆的なことである。
国家の場合、個人は国家に先立って形成されており、国家は個人の必要と彼らが結ぶ契約ということによって、はじめて意味を持ち、また強制力を発揮する。これとまったく同様に、ホッブズの精神的言説は公共的言説に先立って構成されており、後者は前者から派生したものに他ならないのである。
現代の経験主義哲学は、後の方の理論をしめ出し、放り出したが、前の方の理論については、たとえばジョン・ロールズの『正義論』に見られるごとく、いまだにしっかりと保持しているのである。
ayu-mushi.icon意思決定理論がモデル化しようとしている推論プロセスが言語があってはじめて可能だとしても、意思決定理論が所与としている概念 (信念、選好) も言語があってはじめて可能だということにはならないだろう
(ん? 意思決定理論はプロセスをモデル化しようとしているんだっけ?)
もしくは
The evidence is so overwhelming and incontrovertible that, by the time one gets to the end of a book like Dan Ariely’s Predictably Irrational,1 it begins to feel like piling on. The suggestion is pretty clear: not only are people not as rational as decision and game theorists have traditionally taken them to be, they are not even as rational as they themselves take themselves to be. This conclusion, however, is not self-evident. The standard interpretation of these findings is that people are irrational: their estimation of probabilities is vulnerable to framing effects, their treatment of (equivalent) losses and gains is asymmetric, their choices violate the sure-thing principle, they discount the future hyperbolically, and so on. Indeed, after surveying the experimental findings, one begins to wonder how people manage to get on in their daily lives at all, given the seriousness and ubiquity of these deliberative pathologies. And yet, most people do manage to get on, in some form or another. This in itself suggests an alternative interpretation of the findings. What experimental game theorists may have demonstrated is not that people are systematically irrational, but that human rationality is heavily scaffolded.
Heath, Joseph and Anderson, Joel "Procrastination and the Extended Will"
からすると、合理性が外部足場によって実現されていて、もし解釈主義みたいなのを取るなら、そこから志向的態度自体も外部足場によって実現されてるってことになるのかも…? (そうなるかな?)
extended belief, extended desire
https://gyazo.com/974f933a01b5448b1ae7c03694e0f5ee
https://gyazo.com/1bb4bcb55b3bd211456535fd5b44954e
外的世界に関する懐疑論
外的世界に関する懐疑論に対しては認識論的文脈主義かなにかで応答しておけばいいんじゃないか (アブダクション派と実用主義派が多いっぽかった↓) (←いやそもそも認識論的文脈主義が答えている懐疑論と、ヒースが答えている懐疑論が同じとは限らない)
https://gyazo.com/ef350da05f4bd27c09f5ca4635c46609
たぶん懐疑論の応答というのはパトナムやデイヴィドソンのものを念頭においているじゃないかと思うけど、べつに言語の志向性から心的状態の志向性が派生すると考えなくても、心的内容について直接 指示の因果説、意味論的外在主義、解釈主義などを適用すれば、パトナムやデイヴィドソンの外的世界に関する懐疑論に対する応答がそのまま使える可能性もある。
だから「懐疑論に応答しやすい」ということは、言語の志向性から心の志向性が派生すると考えるのが有利になる理由にはなっていないはずだ。
(いやデイヴィドソンはもともとから心的内容と言語の意味が同時に決定されると考えており、どちらかがどちらかの派生だとは言っていないが。)
パトナムはどうだっけ
近世哲学が懐疑論に陥っていたとしても、それが心的内容が言語から独立に自立すると考えたことによるとは限らないわけでしょう
phenomenal intentionality
「古い見解、心理的イメージ主義は、信念を世界の絵やイメージのようなものとして取り扱う。これは、ホッブズ、デカルト、ロック、ヒュームその他に見つけることのできる心についての理論である。」
ホッブズ: 精神的言説 「発話(speech)の一般的な用途は、我々の精神的な言説(mental discourse)を口頭(ルビ: ヴァーバル)のものにすること、いいかえると、我々の思考の連鎖を言葉の連鎖とすることである」(『リヴァイアサン』一・四) (言語はなぜ哲学の問題になるのかから孫引き)
これは文主義っぽい?
…ホッブズは,計算するとは,加算された合計を集めたり,あるものが他から減算されたとき何が残っているかを知ることであり,〈考えることは足し算や引き算と同じ〉であって,〈すべての思考はこれら二つの心の操作(operationes animi)〉として理解することができるとした。
デカルトは千角形 (イメージ不可能) の例を出しているのに心理的心像理論なのか? 生得観念: 神、自由意志
もしデカルトが不一貫なことを言っているというなら、イメージ不可能な例を知りながらイメージ説に固執したということもありえるわけだが
ロックに関しては、観念という語を、感覚知覚、体感(痛みとかくすぐったさのようなもの)、精神的心像(イメージ)、思考と概念 などの「異常に幅広い仕方で」用いているらしい (『言語はなぜ哲学の問題になるのか』 より)
ヒュームは単純観念は印象のコピーだと言っているからたしかに観念をイメージのようなものだと捉えているのだろう(複合観念は?)
志向的態度についての解釈主義は心像理論でも文理論でもない気がする
(構文論を帰属しないので、どのような構文論を持つかという問いは生じない(あるいはどのようなものでもよい))
コネクショニズムは?
意味を心的な物と同一視する考えを、心的イメージ説に矮小化した上で倒したかに見せる、というweak man argumentを使う人がいる気がするが (フレーゲの心理主義批判など)、ここでヒースはちゃんとフォーダーの心の言語仮説のような立場も検討しているのは良い
「ある種の信念 / 心的内容を持つのには言語は不可欠であり、その志向性は言語の志向性から派生している」くらいの主張にしておけばいいのでは
「犬が飼い主が餌をくれたと思っている」というのでde re とde dictoの違いを再現するために
とりあえず飼い主だとは気づいていないがその人が餌をくれたということは分かっている場合を考えればいい
(変装するとか香水をつけるとか) (これでde reは成り立つが、de dicto は成り立たなくなる)
もしかしたらそういう場合は臭いを嗅いで毒じゃないか検討する時間が伸びるかもしれない (知らない)
@quolc: 猫が自動給餌器になつくみたいな事例を聞くと、そうそう得体の知れない隣人たちがヒューマン素朴心理学みたいなので近似できてしまっては面白くないんだ!と勇気付けられる気持ちになる 逆に飼い主じゃない人が飼い主に変装すれば、de dictoは成り立つが、de reは成り立たない状況も考えられるのでは。
(それは「飼い主」と飼い主である個体A氏の間の区別なのか、A氏と変装しているB氏という複数の個体の間の区別なのか?)
ローレンツの著書によると、彼は、ハイイロガンの卵を人工孵化して、ガチョウに育てさせようとした。ガチ当然のようにガチョウの後について歩き、ガチョウを親と見なしているようにふるまった。ところが、一つの卵だけを自分の目の前で孵化させたところ、その雛は彼を追いかけるようになり、ガチョウのふところへ押し込んでも、他の雛がガチョウについて行くのに、その雛だけは彼を追ったという。
ガンの仲間の雛は、親の後ろを追いかけて移動する習性がある。この行動は生まれついてのもの、つまり本能行動である。ところが、雛は親の顔を生まれた時には知らず、生まれた後にそれを覚えるのである。具体的には、生まれた直後に目の前にあった、動いて声を出すものを親だと覚え込んでしまう事が分かった。したがって、ガチョウが孵化させた場合には雛はガチョウを親鳥と思い込み、ローレンツが孵化を観察した場合には彼を親鳥と認識することになるのである。
…
ローレンツを親だと覚え込んだ雛は、その後も彼を追いかけ、彼はその雛を同じ寝室で育て、庭で散歩させ、池に入って泳ぎを覚えさせたとのこと。鳥類では子育ての期間がそれなりに長く、その間に飛行や遊泳、餌を取ることなど覚えねばならない上に、それを親が子供に教えるような行動が見られる。それらのすべてに刷り込まれた親がかかわらざるを得ない。
「そのガンはローレンツを親だと見なしている」
In this late essay, Sellars acknowledges that animals possess representations with propositional form and can make, correspondingly, what Sellars calls “Humean inferences,” that is, material inferences that employ no explicit generalization or logical principle. His example is the move from “Smoke here” to “Fire nearby.” Human representational systems possess logical form; they enable us to engage in what he calls “Aristotelian inferences” in which a general principle is explicitly represented: “Smoke here. Wherever there’s smoke, there’s fire. So, Fire nearby.” This, Sellars claims, is the crucial difference between animal and human: full-fledged thinkers can recognize conditionality and generality as such, because they possess explicit symbols for if…then, all, and some."
セラーズは動物も推論できると認めていたっぽいぞ。
ただし、形式的推論ではなく質料的推論は、動物にもできるってこと。
私的言語論証
フォーダーの仮説に対するより強力な反論は、すべてこの基本的な思想〔私的言語論証〕の流れの変奏曲にすぎないことがわかるだろう。p.179 『ルールに従う』
コネクショニズムからの反論などの方が重要ではないのか(詳しくは知らない)
ウィトゲンシュタインの砦となったのは私的言語論証で、ウィトゲンシュタインはそこから心の哲学と言語哲学に対する力を及ぼしていた。
この力に対する、認知心理学という外からの脅威の拡大は、1970年代のイギリス哲学において驚くほど少ししか気にされていなかった。
しかし、内側からの脅威があった。
そもそも私的言語論証は正確にはどういうふうに成立するものと考えられているのか?
ウィトゲンシュタインの提示の仕方は、悪名高いことに、ぼやけた神託的なものだ。
私的言語論証の最も単純で明快な再構成は、実質的に、「人がある心的状態にあるためには、その状態にあるという独立のチェックが可能でなければならない」という検証主義的な前提に依拠するものだ。
しかしもし私的言語論証が検証主義的前提に依拠するとなると、検証主義自体が論証されなければならないということになるので、あまり説得力がない、ということが一般的に合意されていた。
私的言語論証の擁護者たちは論証はそのような前提が無くても成り立つと言い張っていたが、実際どう成り立つのかを十分に説明することができなかった (前に言及したデイヴィッドソンの超越論的論証に関してと同様に)。
ウィトゲンシュタインの砦は内側からの危険にさらされていた。
その結果として、ウィトゲンシュタインの影響力は徐々に減っていた。(p.29)
(リンク先にさらに続きあり)
私的言語論証 vs. 認知心理学
この辺は『ブランダム 推論主義の哲学: プラグマティズムの新展開: 白川晋太郎』を読んだほうがいいか。
1日ずつ木に刻みを入れるということをしているひとがいても、1人だとその日ちゃんと木に刻みを入れたか、どういう規則で木に刻みを入れているか忘れてしまうかもしれないから私的にルールに従うことはありえないというが、10人だろうと全員忘れたら同じ問題が発生するのでは
個々のエラー確率がpなら、人数をnに増やしたところで (全員のエラー確率を独立として)$ p^nの確率で全員エラーするのでは
人間で考えるとどうもその人がルールを作り従うという能力はあらかじめ前提されてしまうように思えるので、何か物体とか動物とかで考えてみたらどうか
前言語的人間というのを、どういうふうに扱えばいいのか。もしヒースがいうように命題的態度を持たないというなら、そのひとについて素朴心理学をつかって予測することができない。
あとで無人島から救出されることが、いったいいかにしてルールに従っていると言えるために助けになるのか?
無人島での過去の行為について救出後にサンクションするのか?
ayu-mushi.icon我々はある種の書式を発明することが現にあるのではないか。たとえば本に線を引くこと。
あるいは、本の情報を整理するとき、まずタイトルを書き、次に著者を書き…というような。
このようなとき、そのやり方がともかくなんらかのいい感じの規則性を持っていれば、後で見たときに「意味」を理解できる。
たとえば、2つの日時を並べて、作成時刻・編集日時をそれぞれ表しているが、言葉でどちらかなのかは書いていないとする
SEPによると、傾向性説には
規則は1つに定まるが、それは間違っているかもしれない(馬を見たら馬と言うが、暗闇で牛を見てもいつも馬だと言うかもしれない) (選言問題)
規範の場合、ルール違反をルールの一部としてカウントしてしまうかもしれない
規則がそもそも一意に定まらないかもしれない (無限性、非決定性)
なぜプラスに関する規則を持つという事実が、23+32に55と答えなければならないかに答える必要がある (規範性)
という3つの問題があるっぽい。
「相手が自分を罰するのは適切なときだけにしてほしいという期待、自分にその資格があるときにのみ報酬を与えてほしいという期待を持ち、それに違反するサンクションを相手が行った場合は相手を罰し返す」
ここでの「適切」とは?
「1つのルールについてそれを破る振る舞いと、逸脱するサンクションパターンの両方に対して罰を与えるという仕組みであればいい」というが、思っているルールの内容が一致しないときは2人は永遠に負のサンクションし合うのか?
現にサンクションするのではなく、サンクション「可能」というだけだ、と返されるかもしれない。
しかし、物理的にはいつでもサンクションは可能だ。突然目の前の人に大声で怒鳴ることも物理的には可能だ。
物理的ないみで可能といってるのではなく、サンクションに対しサンクションをするという権限があるということだ、という意味なら、(社会規範を定義したいのに) すでに規範的な概念を使ってしまっている。
Aが57+22=79という。それにBが負のサンクションする(Bは他人がクワス算のルールに従わない場合に負のサンクションを与える)。それにAが負のサンクションを仕返す。
それにBが負のサンクションをし返す。……(以下同様)
最初は言葉を使わずにサンクションしなければならない。流石に殴らないだろうから、ギョッとした表情をするとか?
@adamgurri: Joseph Heath, Cooperation and Social Justice. I feel like this point is very relevant to the cancel culture debate, in that commentators treat some behavior as punitive and others as voluntary when there’s always this undercurrent even in the latter sorts of cases. https://pbs.twimg.com/media/FdXKQc_WYAI8TQV.jpghttps://pbs.twimg.com/media/FdXKQdCXEAIwv00.jpg
こういう感じか
凝視
判事を罰し返せるなら、それはけっきょく自分が自分自身の判事であることになるのでは
サンクションというとすでに志向的・規範的な意味を含んでしまう (サンクションとは社会規範の侵犯者を罰するという目的を持った行為である)という問題を回避するため、パンパカパッパーと明るい音楽を鳴らす行動があるが、実は2人ともその曲がすごい嫌い(相手も嫌いなことを2人はお互いに知らない。たぶん朝起きたときのアラーム音に使ってる) なので、相手の直前の行動(と同じタイプの行動)を抑制する働きを持っている、と考えてみよう。
(ヒースはサンクションという概念に相手の行動を抑制するという 意図 が前提されているというわけではないというので、それでもいいはず)
直前の行動 (と同じタイプの行動) を抑制するということを見たらその曲がお互いに嫌いなことはばれてしまうか
何を同じタイプと分類するのか?
サンクションは行動主義的に見ることもできるし、意思決定理論的に見ることもできる (意思決定理論的には、相手がサンクションがあると予期してその行動bをしなくするという目的を持って、bをした場合に相手の利得が下がる行為cを行うことを事前にコミットメントする)
「「「「最初の人がxと振る舞う」と二番目の人が期待する」と最初の人が期待する」と二番目の人が…」というのは志向的態度を密輸入しているのでは?
これまでの行動とサンクションの系列は有限なので、やはり無際限の適用を伴うルールを定めるには足りないのでは
行動にサンクションを与えても、その行動のどの点が社会規範に反しているのか、言葉を使わないとわからないことも多いのでは
ゲーム理論における均衡を維持する期待に似ている→ナッシュ均衡のこと?
乳幼児ではなく先天的言語障害の人の例などはないのか?
言語に関する脳の部位が、思考をしているときに活動しているかを見る
「思考を表現する言葉を思いつかないという場合があるが、それは文全体が表現したい指し手 (move) は思いつくが、それを構成する言葉を組み立てることができていないだけ」 だというが、そもそも指し手の推論役割というのはそこから推論できることや、帰結すること、どういう条件で使えるのか、であるということだった。
ならば、思考を表現する言葉を使わずに指し手 (move) を指定したいときはどうする?
可能な前提や帰結の全てを思い浮かべなければならないことにならないか?
それらは有限なのか?
まあ文の意味を理解できる以上、有限であってほしくはある (しかし意味の全体論からすると本当にそうかは分からない)
同義な表現を思い浮かべればその推論役割を指定したことになるが、そのことはここではあまり役立たたない。
文脈原理
if and only if の only がここでどういう意味なのか分からないことに気づいた
みんなが正のサンクションしてくれる状況というのは、みんながすでに知っていることを言っている状況?
知っているわけではなく、見ればわかるということでは
「あの人シャツ逆さまだよ!」「本当だ!」
バレなきゃ犯罪じゃない
小さな子供は発話を訂正しようとする能力を欠き、従って社会的サンクションの押し付けによって正しく話すことを学ぶのではない、ということを例示するため通常用いられる例):
子供:Nobody don't like me.
母親:違う。「Nobody likes me.」と言うの。
子供:Nobody don't like me.
(この対話が8回繰り返される)
母親:違う、よく聞いて。「Nobody likes me.」と言うの。
子供:うん、Nobody don't likes me.(マクネイル1966)
10.意味論/語用論:(目的とその食い違い) Semantics/Pragmatics:(Purposes and Cross-Purposes)
なお
このような用法は、特に英語で問題になる。たとえば、Nobody don't like me. (誰も僕を好いてくれない)や I don't know nothing. (僕は何も知らない) などがこれにあたる。
このような言い方は2つの否定を意味する語句が対応しあって1つの否定表現を形作るもので、英語は本来はこのように否定文では否定形の語を一貫して使う否定呼応を用いる言語であった。すなわち、否定呼応を用いる言語では、二重に否定語を用いても単純にひとつの否定表現を作るだけであり、論理学的に見た場合は単なる否定である。しかし、否定呼応を用いない言語では、二重に否定語を用いることは論理学的に見るところの「否定」の否定であり、肯定である。
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した。
子供が人工的じゃない方でしゃべるの普遍文法っぽい
@85GJ0: 二重否定が否定の強調になるの、黒人英語の特徴というよりは規範文法が構築される前の民衆英語に普遍的に存在した特徴で、そもそも本来英語というのはそういうものだったらしい https://pbs.twimg.com/media/FfODJsIaYAA3EQI.png
これはあくまで構文論だけども
構文論ではサンクションいらない?
(バーバラ・パルティーによると、構文論に比べて意味論が心理学の一部と考えづらく思われているのはパトナムが指摘したような自然種に関する問題 (指標性、社会的分業(意味論的外在主義)) が、意味論においては発生するが、構文論においては発生しないから。
パルティーは、テイラー・バージの知覚と意味論の比較からする議論を参照している。
それによると、意味も広い意味で心理学の一部として扱える。
というのも、知覚も、必ずしも頭の中の話につきるわけではないが、心理学の一部として扱うことができるわけで、意味論的外在主義が成り立つからといって、心理学の範疇を超えると言えるわけではない。
つまり、心理学というのは頭の中だけを研究するわけではない。)
「人が推論についてサンクションを行っているから推論についての規範が存在する」ということになるのだとおもうが、人は推論自体を評価するのは下手なはず (結論が正しいと思っているものだと、推論も正しいと評価してしまうバイアスがある)
(いや、推論の規範ではなく、スコアキーピングの規範であるらしい)
フリンは傍証として、1920年代に産業化以前の暮らしをしている旧ソ連の農民に対して行われた心理学の研究調査を引き合いに出している。
…
また、「雪が降る地域ではどこでもクマは白い、北極圏には雪が降る、北極圏のクマは何色だろうか」といった質問をしても、「茶色のクマ以外は見たことがないが、北極からやってきた信頼できる証言者の言葉なら信じるかもしれない」といった答えが返ってくる。現実の問題ではない質問にどう答えればいいのか彼らは分からず、途方に暮れてしまう。
(Flynn 2013, p3f〔邦訳: p.4f〕)。
次田瞬『人間本性を哲学する』 「第2章 知能 ――遺伝か環境か、それとも……」 「6 人類の知能は向上しているのか」
そのような人々が話す言葉は意味を持たないみたいなラディカルな主張をすると楽しいと思う
でもサリーアン課題ができる以上他人が (その人が持つ信念からして合理的には) 何を言うか、何をするか っていうのは予測できるんじゃないか (つまりサリーアン課題が解ける以上、スコアキーピング的なことはできる か)
つまり、個々にPからQが従うか聞かれても分からないけれど、ある人の信念の全体から見てQが従うか ということは分かる。
「あなたは私が箱Aから箱Bにお菓子を移動するのを見ていない以上、あなたが「箱Bの中にお菓子がある」と言うのは奇妙だ😡」というサンクション
登場人物が全員自閉症である場合の意味論
言語参入手番、言語退出手番
手番というのは先手番、後手番のようにどちらの番みたいな意味になりそうだからmoveの訳としては変だな気がし、たとえば将棋ならどういう行為をするか move を表すのは指し手と呼ぶけど、自然手番(move by nature)というゲーム理論の用語があるからゲーム理論ではmoveを手番と訳すことになっているのかな
ヒースは何をやっているのか?
これは、言語を持つ前の人類が規範にしたがうようになったのはどのようにしてかという問題?
「どのようにして出現したか」と「どのように出現できるか」は全然違う問いなので「どっちなんだ」と言いたくなるが、まあ内容を見るなら少なくとも「どのようにして出現したか」をまじめに考察している様子はないので、「どのように出現できるか」、科学哲学で言うところのhow possiblyに関する問いを考えている、とみなすことができるだろう。
language-as-it-could-be, language-as-we-know-it
機能する言語が発生する仕組みを示すことで、可能なメカニズムを提示?
可能なメカニズムの1つにすぎないのであれば、現にそのメカニズムで言語が発生したということは経験的に調べる必要がある?
熟慮システム、社会規範、社会化、セルフコントロール、言語、志向的計画システムとかについての経験的主張が多くあるが、これはどういった経験的証拠や実験があればサポートされるものなのか?
進化的考察?
ヒースは○○が説明できる、、という話を並べている。つまり最善の説明への推論?
それは解釈主義でも説明できるだろというのが多い。
動物には領域一般的な知能がないのか?
「煙!」: 煙があるとき言語参入手番で使える。
「火!」:「煙!」から推論できる。「火!」に対して逃げるという言語退出手番がある。
どういうサンクションを想定する?
理由を言ったり求めたりするというと、「火!」『なんで!』「煙!」というように理由を求めることもできる?
What is the function of a fire alarm?
One might think that the function of a fire alarm is to provide you with important evidence about a fire existing, allowing you to change your policy accordingly and exit the building.
In the classic experiment by Latane and Darley in 1968, eight groups of three students each were asked to fill out a questionnaire in a room that shortly after began filling up with smoke. Five out of the eight groups didn't react or report the smoke, even as it became dense enough to make them start coughing. Subsequent manipulations showed that a lone student will respond 75% of the time; while a student accompanied by two actors told to feign apathy will respond only 10% of the time. This and other experiments seemed to pin down that what's happening is pluralistic ignorance. We don't want to look panicky by being afraid of what isn't an emergency, so we try to look calm while glancing out of the corners of our eyes to see how others are reacting, but of course they are also trying to look calm.
(I've read a number of replications and variations on this research, and the effect size is blatant. I would not expect this to be one of the results that dies to the replication crisis, and I haven't yet heard about the replication crisis touching it. But we have to put a maybe-not marker on everything now.)
A fire alarm creates common knowledge, in the you-know-I-know sense, that there is a fire; after which it is socially safe to react. When the fire alarm goes off, you know that everyone else knows there is a fire, you know you won't lose face if you proceed to exit the building.
「煙!」と同じように、「おはようございます」とか「アッー!」、「ヤッホー」、「アララララーイ」、「くっ…」と言ったあいさつ、掛け声を発していい非推論的条件を指定する言語参入手番の規則もありそうだ。
「おめでとうございます」「こんにちは」
「ブーブー」(車)
「ありがとうございます。」「どういたしまして。」
「ぬるぽ」「ガッ」
他の人のも推論に使えるというのは、他の人のことを言うことをデフォルトで信じるということ?
「X!」: 煙があるとき言語参入手番で使える。
「X!」: 「Y!」から推論できる。「Y!」に対して逃げるという言語退出手番がある。
誰も本物の火かどうかに気づかない
「火!」と聞いて逃げない人は火という概念を理解していない?
ここでブランダム「様相、規範性、志向性」が引かれてて、まるで志向性の説明で様相使ったらダメみたいなこと言われてるが、ヒース自身の説明では使ってないのか。ヒースの説明も「もしPならばサンクションされる」のような、真理様相を使っているのではないか?
いや、サンクションの規則性というのは現に行われた / これから現に行われる サンクションの規則性であって、反事実的な考慮は存在しないのかも。
というかブランダムの論文は志向性の還元や消去が重要じゃないってことを言ってるだけで、社会的サンクションアプローチを自然主義的なアプローチに対して優越させるようなことは何も言ってないような。一方で、志向性の還元が重要じゃないって論点については、ヒースは同意していないように見える。(還元を行おうとしている)
スコアキーピング
what the agent "should" assent to
この人が「煙!」と言ってるから帰結として「火!」にもコミットしてるんだろうというのと
逃げたので「火!」なんだろう、実際にそう言ってるかはともかく、という話はどういう関係にあるんだ
火!でない場合は逃げないので、逃げたということは火!である「べき」?
ジョーンズの神話?
ブランダムのいうコミットメントなのかゲーム理論でいうコミットメントなのかわかりにくい。
関係あるのかな?
ヒースは、知覚をブランダムがするように「差異的反応傾向」とみなそうとする(p.184)
差異的反応傾向って概念は、行動主義っぽい?
弁別刺激の違いにより個体の行動が変化することは刺激性制御 (stimulus control) と呼ばれるわ ( ´∀`)
色知覚がある場合、色についての信念を形成できるわけではなく、色の違いについて別々の反応ができるようになるだけだというヒースの主張。
とりあえず色に対する行動に差異があるだけとは限らなくて、記憶などもできるだろう
「xとyは同じ色である」ということに応じて反応できるようになるのは、色知覚だけではできないのだっけ。
別のところではヒース自身、別々の顔に差異的に反応する機構が進化したなどと言わず、顔を「認識」する機構が進化の結果であると言っているが。(認識するというのは志向的ではあるが、信念を帰属してはいないかもしれない)
人間の乳児はとても小さな数の物「についての」「判断を行う」スービタイズシステムや、多くのもの「に対する」「近似的な」「判断」を行うシステムを持っていると言っている
馴化-脱馴化法、選好注視法、新奇選好法、吸綴法
赤ちゃんの研究は、差異的反応傾向があるかどうかっていうのを (それだけを) 調べているっぽい。
内観・感情の言語参入手番をサンクションで統制するのは難しい気がする
いや痛くないでしょみたいな状況はあるけど
脚注18でドレツキの『行動を説明する』が引かれて、犬猫が機能的に信念に近いproto-beliefを持っているということは認めようという話をされている。
「これが、効用を最大化するプログラムを開発するのはかんたんでも、基礎的な以上の顔認識をするプログラムを開発するのがこれまで不可能であってきた理由である」
!? 2008年段階での顔認識ってそんなレベル低かったの?
志向的状態は心的状態ではないというヒースの主張は、心的状態とはすなわち志向的状態のことであるというブレンターノテーゼの真逆を言っている。
「プラグマティックな説明にもっともらしさを与える観察は、人が論理的推論タスクはうまくできないが義務論的な推論はできるということだ。推論が社会的実践としてはじまるからこそ、そのようなタームで定式化された問題を解くのが得意なのだ」
メタレベルと対象レベルを混同しているのでは